工人(たくみびと)の歴史(1)
もうかれこれ27年間も建設業に携わっているにもかかわらず、いつ、どこで、だれが、どのようにして始まったかなどを考えたこともなくぼんやりと過ごしてきました。
なんとなくこんな感じだったのかな、という浅はかな考えだけで自分達の職業を深く考えることもせず生きてきた事に恥ずかしさを感じ先輩方達の生きざまをしっかりと勉強し、想像し、感じ、そして感謝の気持ちを持って今後の仕事に活かせるようにと記事を書こうと思いました。
原始時代~飛鳥時代
原始時代には、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)がありました。
その時代の道具と言えば打製、磨製の石斧。
それで穴を掘ったり、木を切ったりしてたそうです。土工、木工の土木工事です。
当時は他人のために家を作る事はなく、自分や自分の家族親戚のためにだけ行っていたようです。
自給自足の時代です。
こうした旧石器時代から中・新石器時代になり、土器などもつくられ、亜新石器時代になりますと金属器や青銅器がつくられるようになりました。
進歩と同時に階級社会も生み、鉄製の道具をたくさん持っている人々(豪族)と、道具を持たない人(庶民)との関係が生まれます。
紀元前3世紀頃になると稲作が盛んになり田んぼを作ったり用水施設も建設しなければならなくなりました。
こうした大規模な建設工事はたくさんの人の共同作業となり、やがて階級社会ができ他人のために働く人、他人を働かせる人が出てきました。
古代3世紀頃は奴隷制社会であり豪族と庶民の関係でとくに貧しい庶民は自分の身を売って豪族に提供し奴隷となって扱われていたそうです。
古墳時代、豪族と呼ばれる支配者のお墓である古墳の建設は土工、石工による労働で、その豪族に支配されていた人たちが強制的に労働させられていたそうです。
そして「手人(てひと)」と呼ばれる朝鮮半島からの渡来人により最新の道具や技術を豪族たちが積極的に取り入れたそうです。
また仏教が伝わり「寺工(てらたくみ)」と呼ばれていた仏寺の造営においての設計施工の指導をする技術者が来日します。
渡来人の中でも、秦氏(はたし)は伏見稲荷大社(京都市伏見区)や八幡神社とのつながりが深く、秦河勝(はたのかわかつ)は聖徳太子に寵愛されていたと言われております。
秦氏についてもう少し深掘りする必要があります。
<いさら井>
「日本書紀」によると秦氏は3世紀頃に弓月国(ゆづきのくに)から渡来したそうです。
弓月国は朝鮮半島の「百済」であるという説や、中国の西のカザフスタンやウイグルの辺りに存在していたユダヤ人が満州から朝鮮に渡り、新羅の国から迫害を受け、日本に渡ってきたという説もあります。また秦氏は「秦の始皇帝」の末裔ともいわれております。
上部写真は、「広隆寺」西側の細い路地にある「いさら井」と呼ばれる井戸です。
今は使われておりませんが、明治の学者の「佐伯好郎説」ではイスラエルがなまって「いさら井」となったとか、
はたまた、古語でいさらは「少ない」という意味があり、「少ない水量の井戸」という説明もつき謎に包まれています。
<広隆寺>
また、京都市右京区太秦(うずまさ)は「太」=拠点「秦」=秦氏、と書くように秦氏が居住した地であり、広隆寺は推古天皇(603年)の時代、秦河勝が聖徳太子に菩薩像を賜りそれをご本尊として建立したとあり、また「太秦のお太子さん」と親しまれているそうです。
近年、聖徳太子(厩戸皇子)は存在しなかったという説が学者さん達のあいだで言われておりますが、その真偽は学者さん方にお任せしまして、私自身の想いは「冠位十二階」があり「十七条の憲法」があり、「遣隋使」が存在していたという事実があり、その時代の工人たちに興味があるということです。
<四天王寺>
そして「部民(べみん)」と呼ばれる工人が生まれます。
①木工関係では「猪名部(いなべ)」と言われ、こちらは大工です。
②土工関係に「土師部(はにしべ)」と「泥部(ひじべ)」
③石工関係に「石作部(いしつくりべ)」
「部」でありますから、もちろん無償であり必要最低限の食糧が与えられるだけで、豪族の道具と材料を使って労働を提供する、奴隷的工人であったそうです。
聖徳太子が渡来人や帰化人から中国の建築技術を学び建立したと言う四天王寺(大阪市天王寺区)や、法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)などの数々の有名なお寺、神社、道路の建設工事は豪族たちの支配下である人民の奴隷的な無償の強制労働であったという。
世間一般的には聖徳太子の伝説や伝承にフォーカスがあてられておりますが、その影では工人さん達が尽力していたということを忘れてはなりません。
そのような奴隷的な強制労働時代から建築職人が生まれ、社会的地位を得るに至るまでの歴史を深掘りしていきたいと思います。
つづく